2015年12月18日金曜日

この世は二人組ではできあがらない


 私が思ったのは、「私は処世術を身につけたいわけではない」ということだった。会社へ入って、辛いことがあっても頑張ったら、何かが身につくのだろうが、それが処世術というものだとしたら、そんな術はむしろ捨てたいのだ。
 私は社会参加をしたかったが、社会で上手くやる気はさらさらなかった。


 好きだ、という科白をひとりの異性にしか使ってはいけないという社会通念を、私はばかにしていた。どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか、不思議だった。
 だから、好きだ、というのを、二人組になりたいという意味には捉えないことにしていた。


 紙川さんはときどき不安そうな顔をするなあ、と見ているうちに、どうやら私のことが本当に好きらしい、それで私のことを考えているようだ、と思えて来た。手や腕が偶然に触れ合ってしまうようなときに、そのことが伝わってくる。自分はこの人に何かを与えてあげられるかもしれない。傲慢かもしれないが、そんな気がしてならなかった。


 「つき合って」と言うので、「はい」と返事しておいた。「つき合って」というのは現代日本の恋愛用語であり、パートナーと呼ぶほどではないが、他人を前にしたら「彼」だの「彼女」だのという三人称を「特定の異性」という意味あいで使って紹介し、その異性と「つき合い」をやめるときには別れの挨拶を必要とし、それなしで他の異性と仲良くなるのを「浮気」だの「本気」だのという言葉を使うことになるということを、暗黙の了解として共有したい、という科白である。


 卒業式には、大学の中庭に置いてある銅像に、花ちゃんと、服部くんと、金田くんと、私の、いつもの四人で、缶ビールをプシュッと開けて、かけた。銅像の頭が光り、淡い黄色の泡が細く流れていく様子を、私はじっと見てた。
 日々が過ぎていくのはわりと奇跡。こうした泡の形も偶然の産物で、この世で唯一。この長い宇宙時間で、初のシーンなのだ。しかも、このアングルで、この日々を見ているのは自分ひとり、そう思うと、ほら、怖い。日々が過ぎていくのが、怖くなる。



 渋谷は青い若者の群れで恐ろしかった。警官も湧いて出た。道を歩く全員のテンションが高い。こんなに安易に、国の一体感を作ることができるスポーツというものに脅威を感じた。
 スクランブル交差点では、
「ニッポン、ニッポン」
 と知らぬ人同士が握手をし、ハイタッチを繰り返す。ただのスポーツチームを、国の名前で呼ぶのだった。


 私の動き方も、喋り方も、紙川さんには明かりに見えたのに違いない。私が紙川さんの生活の喜びになっていることが、私にはよくわかっていた。私のおかげで、紙川さんの暮らしに色彩が生まれたという考えは、うぬぼれではないだろう。ときどき欲情してくれて、私が生きていることを全肯定していた。そんな人は他にいなかったのだ。ばかな人だけれど、私にとっては大事な人としか言いようがない。私は初めて明かりになれたのだ。


 論理の成り立つ場合にしかコミュニケーションは成功しないという考えは、世界を狭める。
 泣かれて動揺する方が悪い。泣く方は、何も動揺させるために泣いているのではないのだから。涙を見せると相手が動揺するから「泣くな」という論理は、肌を見せると相手が劣情を起こすから「ベールを被れ」というのと同じではないのか。



 だが私は紙川さんが思うほど、彼から影響を受けていない。私には紙川さんに出会う前の二十年ほどの時間があって、その中で傷ついたり、苦しんだり、本を読んだりして、自分自身で自分のセンスを鍛え、自分という人間を作り上げてきたのだから。


 私は小説も、絵も、音楽も、教養や心の豊かさのために使ったことがない。ただの逃避手段だ。視点を移すため。現実の状況とは違う、別の考え事をしたくて、芸術を道具にしていた。



 この世には、ぶっ倒れてもセーフティネットがある。
 もしも、本当に「二人ぼっち」で生きていたのだとしたら、私は米も家も失い、誰とも会話できず、真剣な意味での「ひとりぼっち」になっていたはずである。しかし、私は孤独になっていない。誰かが育て誰かが炊いた米を食べられ、長く長く読み継がれてきた小説を手に入れられる。
 二人が好き合っていたのではなく、世界から二人が好かれていただけだったのだ。


 子どもの頃、大人同士が手を繋ぐのを見るとき、どうして三人組の人がいないのか不思議だった。二人組になることに命をかけるほどのことをして、それなのにカップリングのあとに何を目指すわけでもないということが、謎だった。


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久しぶりに、好きな人たちに回したいと思うような小説に出会った。傑作だ。
兄と一緒に住んでいた頃の本棚に、付箋がいっぱい貼られていたこの本が置かれていたのを思い出す。
どのように兄がその本を卒論に引用したのかは知らないが、引用するだけのことはありそうだ、と思うくらい印象が強かったなぁ。
これはどこに引っ越しても連れて行く本たちの仲間入りをするでしょう。

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