私、人生で絶望したのは、2011年の3月11日が初めてだった気がする。
それまでも、苦難とかは自分なりにはあったんだけどね。
でも、あんな気持ちになったのは、人生で初めてだったこと、今もよく思い出す。
2011年3月11日、私は沖縄の渡嘉敷島でサンゴの研究のため、渡嘉志久湾の海の底にいました。
潜って作業をしていたら、監視員のお姉さんが水上バイクで私のいるところまで来て、
後ろに乗るように言われました。
何が起きたのか分からず、陸へ向かい、びしょびしょのまま倉庫でとりあえずウェットスーツなどを脱ぎ服に着替えて、髪もまともに拭かない手ぶらな状態で、バスに乗り込みました。
そこで地震があったことは知りましたが、どの程度なのかは想像できません。
バスの同乗者たちも、(東京出身の人が多く、)みんな笑っていました。
でも私は、バスの先頭で娘を大事そうに抱えるお父さんの表情から、嫌な予感がしていました。笑うことは、できませんでした。
島の一番高いところにある施設まで連れていかれ、久しぶりにテレビを見ました。
(研究生活で長期滞在していた場所は、テレビもインターネットもありませんでした)
あまちゃんじゃないけど、テレビの映像が本当にドラマや映画みたいで、何にも言葉が出ませんでした。
そして、実家がある茨城県が、大きな被害を受けていることをそこで初めて知りました。
小さい頃だけじゃなく、帰省した時必ず遊びに行っていた大洗が、波にのまれ、また沖に船が流されている映像を見ました。
お金を借りて施設にある公衆電話で実家に何度も電話をかけるも、つながらない。
こんなときに私は手ぶらで、携帯も持っていない。
父親の携帯番号も、母親の携帯番号も、覚えていない。
私は思いました。
あ、両親は死んだ。
私はただ本当に、泣くだけだった。
初めて文章にしているけど、やっぱり何だかこういう表現になってしまうね。
落ち込んでいる私を、沖縄の人はたくさん励ましてくれました。
周りに人がいない中、ほうけてテレビの前に座り続ける私の隣に、黙ってずっと座ってくれていたサークルの同期もいました。
後輩の携帯から心配の電話を館山からかけてきた、サークルの先輩もいました。
彼は同じ高校出身で、大洗の海沿いに住んでいました。
(ちなみに、彼の家族も無事でした。)
しばらくして、頭のきれる同期が『お父さんの勤め先に連絡してみたら?』と。
その子の携帯を借り、父親の勤めている病院を検索して、ためらわず電話をかけました。
「もしもし、内科の林原の娘です…」
「分かりました。今替わります。」
「もしもし、のぶこ。大丈夫、兄も母も、みんな無事だよ、生きてるよ。」
(私はそこではじめて兄のことを思い出しましたごめんなさい兄のことは好きですよ)
(病院って電話がつながりやすくなっているのかな?私はお父さんが医者で本当に助かったとその時に思いました)
本当にたくさん泣きました。
そんな私を、父親はやさしく笑っていました。
私が安堵の涙を流し振り返ると、島の人がたくさん外に出て来て、電話がつながったこと、私の家族が生きていたことを、みんな喜んでくれました。
ここで、私の話は終わりです。
今でも、あの「両親が死んだ。」という気持ち、心の状態をすぐ思い出すことができます。
あれから本当に毎月ふと、あのときのあの感じが体にも心にも蘇ります。
嘘みたいだけど、本当に忘れることができないんです。
誰のためでもなく、ただ、身体が心が忘れないんです。
これが、人生初めての絶望なんだと私は思います。
2011年3月11日に私がいた渡嘉敷島は、全くといっていいほど揺れず、警報は出ていたものの、津波も気がつかないくらいの小さなものでした。
なので私は、東日本大震災を経験していません。
そんな私の、震災のお話でした。
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